ほとんどの人にとって支持・不支持をはじめとする価値判断は結局のところオカルト・サイエンスによらず信仰の問題なので、大枠の針路を練るうえで信仰を知ることは無益ではないように思う。主義主張信念思想嗜好、なんでもいいけど、そういったものの始祖ではない人すべてはその度合いの多寡にかかわらず信仰心の持ち主と言っていいように思えるし、それならば自分が何かをことあらたまって信仰すれば類似した心の動きを注視することもできようが、しかし信心をはじめたらなにかをより深く知ることができるいっぽうで別のなにかを決して知ることができなくなるような気もする。ちょっと気分を盛り上げるために西新宿で呑んだりもしているが、さすがに「やるなら今しかねえ」とは思えない。このあたりもひとつの信仰としての長渕愛がいまいち不足している証か。

複数の人間のかたまりが何かのイメージなりモノなりリクツなりを信仰するに至る過程とか、それを形作る必要・十分条件とかを科学的に本気出して考えてみた人の成果を横取りして活用させていただきたい。そうすればもうすこし落ち着いて生きられる気がする。冷静になりたい。

信仰心について本気出して考えてみたらいつでも行き当たるところはやっぱり虎穴ロジックを援用しての帰依洗礼? でもあらゆるところから門外漢でありたい凡庸志向が出家をゆるさない優柔不断なるいちたましいは果たして何かの核心に迫れるのか? もう少し手段が欲しい。

自分でない何か巨大な力を想定してそれに悪態をつく行為がひどく幼く感じられてきたけれど自分がやめられるほどには成熟していない状態なう/人はそれを不自由と呼ぶ/もっと自由で美しい何かを求めて酒を飲むと案外そのへんにごろごろ転がってるから素面のときの絶望がいやまして困る/生活哲学はそれを作ろうと思ったところには生まれず、ただふらふらと酒を飲んでいるうちに醸造される/ならばカッコイイ・カッコワルイを一度忘れてみるべきなのではないか/あほみたいに甘ったるいコンビニのワインを飲みながら、防腐剤の味に己の腐敗を覚え、酔うために酔い、それでも何かに近付いている実感が淡くある中で、かえって近付くのが恐ろしい気持ちもある、それが大人になるということなのか/制度、慣習、東京都迷惑防止条例、道端に嘔吐(最近ない)、漠然とした不安、不安、強い気持ち、強い愛、愛しさと切なさと心強さとフロムサトー、お世話になっております、君のご両親にお会いしたい、予告編、もう一軒行こうか、ペニスの歴史、モナコグランプリ、軽井沢のステーキハウス、神戸の鉄人二十八号、お台場のガンダム、お手数ではございますが、おなら大全、どくろ杯、同じものをもう一杯、たまには休んでもいいんだぞ、これはメニューには無いんですけど、へぎそば、無垢、相似性、特例として重版していただけませんか、モルドバシャンパン、今週の水曜日に新作が出ます、新しくできたお惣菜屋さん、いいカメラ、カミさんに叱られちゃうよ、気持ちのいい酒だね、また近いうちに、愛してる、愛してない、それでは今日最後のナンバーです/日々は断片で、酒を飲む限りそれ以外のなにものでもない。

一昨日つくった卯の花が見事に腐ってたので捨てた

けど饐えたにおいだけはなんとなく部屋に残ってる気がして、こういう題材をさくさく読める程度に調子をとった長い長い単文で書けば芥川賞とれんのかよとか受賞作読んでて思った。嘘、読んだときは思わなかったけどゴミ捨てて部屋戻ったらなんかあれ思い出してそう思った。嫌いな作品じゃなくてもなんかそういう皮肉めいたことを考えちゃうのは、いくら既得権益とか言われようと断固たるブンガクなるものを信じたい気持ちがどこかにあるのが要因の一割ぐらいかと思った。残り九割は泡盛のせいだとか思った。ブンガクなるハードを支えるのはあくまで中小企業の集まりなんだとは分かりつつ、ソフトへの畏怖のためにハードも馬鹿にできないまま酔っ払っているのが今の自分だ。こういうことを考えていると、ここ数年は何かに圧されて言葉が出てこないまま生きているのを実感する。「飲んでる今だけが現実だよ」と言う中年男性の言葉を今更ながら噛み締めている。うまく書けてる気がまるでしないけどこういうものの方が後で見返して得るものがある気もするのでブラッ

web 上で勝手に信頼している書き手が

いままできいてきたKDUBネタのなかでベスト

と『下ネタなんでだろう』を挙げててさすがにどうなのと思った。好きな曲だけど。みうらじゅんは今週?の SPA! で「アース・ホール」「地球くらいでっかいぜ、ガバガバだぜって意味だと思ってた」とか言ってて秋味ふいたくらいには好きだけど、でもなんだかなあ、なんでだろう。なんでだろう。