ほとんどの人にとって支持・不支持をはじめとする価値判断は結局のところオカルト・サイエンスによらず信仰の問題なので、大枠の針路を練るうえで信仰を知ることは無益ではないように思う。主義主張信念思想嗜好、なんでもいいけど、そういったものの始祖ではない人すべてはその度合いの多寡にかかわらず信仰心の持ち主と言っていいように思えるし、それならば自分が何かをことあらたまって信仰すれば類似した心の動きを注視することもできようが、しかし信心をはじめたらなにかをより深く知ることができるいっぽうで別のなにかを決して知ることができなくなるような気もする。ちょっと気分を盛り上げるために西新宿で呑んだりもしているが、さすがに「やるなら今しかねえ」とは思えない。このあたりもひとつの信仰としての長渕愛がいまいち不足している証か。