革命という可能性を念頭に置くと、ジレンマの所在はよりはっきりしてくる。革命を起こす側と起こされる側があって、パウロはきっと前者として教義を組み立て、信仰をつのるだろう。仮に自分が後者でしかありえない場合、自分の解釈ではどうしたって自分が後者でしかありえない場合、渇望してやまなかったパウロは彼岸へ己は此岸へと引き離され、しかし彼岸に焦がれるかというとさにあらず此岸へこそ己と分かち難い何らかの感情を覚え、そうするうちにも己のための念仏は彼岸から朗々と響き、それは他ならぬ己をこそ敵とするラ・マルセイエーズとなるだろう。

それでも、パウロはおれのためのパウロなのではないかと思う。彼岸からガチでおれを殺そうと石を投げてくるパウロかもしれないし、此岸を核の炎で蒸発させようとするパウロかもしれないけど。それでも、そこから何かを感じなければおれは河原の石になってしまう気がする。