久しぶりに軽めの小説読んだりライブの感想文書いたりしてると四合瓶が空きそうになってようやくまだ明日の仕事があることを思い出す。だーかーらー(おれの両肩をつかんで揺さぶるドッペルおれ)

開き直って少し書く:
「軽めの小説読む」と「ライブの感想書く」が自分の中でほぼ同じ回路で処理されてて、それ自体には気付きつつちょっと前までは「昔からの趣味に関わることなので近しい感覚に基づいて消化されている」という程度にしか思っていなかった。が、これってどちらも記憶再生作業だってことなんじゃないだろうか。後者はもちろんそうなんだけど、前者も容易に読める小説だと文字すべてをちゃんと追って消化しているわけじゃなくて、飛び飛びの情報を頭に入れて間を補完しているんじゃないだろうか。感じとしては液晶テレビなんかのコマ飛び補正機能が近い。いかに自分がルーティンで物語を読んでいたか思い知らされる。さらに言うとライブの感想文にしたって記憶の欠落を想像で補ってさらに自分の思い込みを紛れ込ませる作業なので、いずれモノと正面からがっぷりよっつという水準ではない。

上は本の読み方ほかそれほど目新しい見解ではないだろうが、しかし知らないものと向き合うのは思った以上に難しいのだ、ということは慰めのように思い出してしまう。そして一読それを裏付けるように思えた文章のことも。

永井均 - 読まずに書く(「図書」no.178, 岩波書店
http://www.iwanami.co.jp/tosho/718/preface.html

今、私は『純粋理性批判』や『論理哲学論考』を味読することが出来るが、それでも、そこに、かつて自分が書いていたノートへの応答しか読めていないと思う。

違う、これは「読めないよ!」という開き直りではない。安直な曲解を経た共感、いわんや慰めに堕してはならず、もう少しこの言葉の意味を噛み締めるべきだと思う。でもすべてのテキストを完璧に咀嚼していくことなんて可能なのか?
差し当たり、読むことの意味、目的を考えながら、それでも時には飛ばし読みつつ生きていこう。読んで書いて考えて、そうすればいつかどこかにたどり着ける日を夢見ている。酔っ払って月を取ろうとして溺死するフィナーレと同じくらい、夢見ている。四合瓶はとうとう空いた。決意を固めたにも拘らず読まずに寝ねばならぬ。現代の悲劇。