しかしパウロはゴリゴリの伝道者だから、いまの社会というフレームワークともきっちり折り合いをつけた信仰を語ってくれるんだろう。するとやはり問題は世の中というよりは聴き手たる自分の側にあり、パウロが成したように世間というやつと自分というやつとを折り合わせるための実践が無いことには話にならないようだ。世間はこの場合、理念とか理想とか目標とかでもいい。自分の果たすべきロールを自分で解釈し把握し定義してしまった以上、パウロの教えがどうあれ、それが自分にとっての世間であり、それがパウロの教えに反したとき、「パウロを渇望しつつそれに反するドグマで自らを慰めている」人は、どうすればいいのだろう。